
その根拠となるのが『FEATURING WYNTON MARSALIS ’80 VOL.2』(以下『フューチャリング・ウィントン・マルサリス ’80 第2集』)である。
『フューチャリング・ウィントン・マルサリス ’80 第2集』は,アート・ブレーキーの61回目のバースディ・ライブ・セッション・CD。つまりウィントン・マルサリス18歳の記録である。この音はにわかに信じ難い。
ウィントン・マルサリスの登場がジャズを変えた。ジャズのポップ化,つまりジャズの伝統と精神のポップな表現が本流となったジャズ・シーンに「原点回帰」の“凄み”を知らしめたウィントン・マルサリス。
ウィントン・マルサリスは単なる懐古趣味ではない。モダン・ジャズの過去の遺産を「現代流に紐解いて」読み直す。ウィントン・マルサリスの考えるジャズを聴いていると,確かにチャーリー・パーカーが今生きていたならこんな感じ,クリフォード・ブラウンが今生きていたならこんな感じ,に思えてくる。
そう。ウィントン・マルサリスのトランペットに,懐かしいジャズと新しいジャズ,の両面を同時に感じてしまう。これぞ“古いのに新しい”「ジャズ・ルネッサンス」!
『フューチャリング・ウィントン・マルサリス ’80 第2集』を聴き込むにつれ(残念ながら『フューチャリング・ウィントン・マルサリス ’80 第1集』は未聴。ちなみに「フューチャリング」は「フィーチャリング」の誤り)ウィントン・マルサリスの特長について語りたくなる衝動が湧き上がる。
そう。ウィントン・マルサリスはキース・ジャレットのようなソロイストではない。パット・メセニーのようなコンポーザーではない。つまり全くのゼロから創造していくクリエイターではない。
ウィントン・マルサリスには自分に刺激を与えてくれる何かが必要である。ウィントン・マルサリスとは,インプットする何かがあればとんでもないアウトプットをしてみせる天才,なのである。
「新伝承派」は正しくその手の集団であろうし『フューチャリング・ウィントン・マルサリス』にはアート・ブレーキーがいた。『ウイントン・マルサリスの肖像』にはハービー・ハンコックがいた。
そう。ウィントン・マルサリスの超名盤の法則は“自分以上の大物共演者”がキーワードである。

『フューチャリング・ウィントン・マルサリス ’80 第2集』のハイライト。それは“音楽監督”ボビー・ワトソンをガンガン置き去りにしていくウィントン・マルサリス』の突進力。
スタートした瞬間からアート・ブレーキーのバースディ・ライブがウィントン・マルサリスのお披露目ライブに変わっている。ボビー・ワトソンの抑えなど効かない「やったもん勝ち」な下克上のドキュメンタリー。
「ウィントン・マルサリスのためのアルバム」『アルバム・オブ・ジ・イヤー』へと繋がるジャズ・メッセンジャーズによる賛歌が聴こえる。18歳のウィントン・マルサリスを「超一流のボス」と認めたジャズ・メッセンジャーズのメンバーは超一流である。
そしてウィントン・マルサリスを認めたインディーズ・レーベル「フーズ・フー」も超一流。なんたって『フューチャリング・ウィントン・マルサリス ’80 第2集』の原題は「アート・ブレーキー & ジャズ・メッセンジャーズ」名義ではなく「ウィントン・マルサリス」のリーダー名義作に改編してしまったのでした〜。
こんな屈辱,いやいや名誉な出来事は,無数のビッグ・ネームを輩出してきた「アート・ブレーキー & ジャズ・メッセンジャーズ」の歴史において「ウィントン・マルサリス」一人だけである。
01. One By One
02. My Funny Valentine
03. 'Round About Midnight
04. Eta
05. Time Will Tell
06. Soulful Mister Timmons
07. Blakey's Theme
(クラウン/BREAKTIME 1987年発売/BRJ-4040)
(ライナーノーツ/悠雅彦)
(ライナーノーツ/悠雅彦)