LETTER FOR LINKS / 木住野佳子 昨日,TOKYO−FM系「LETTER FOR LINKS」にて「木住野佳子の絆ストーリー」が放送されました。

初めてのニューヨークは,すごかった。
1990年,大寒波のあと。
着いてすぐ,目の前で炎上する車が見える。
たくさんのホームレスが寄ってくる。
夜中に鳴り響く,サイレンとクラクション。喧騒と混沌。
私,木住野佳子は,思った。
「ああ,怖い,早く帰りたい。こんなところに住みたくない」
周りの反対をよそに,単身ニューヨークへの音楽修行。
寒さと後悔が,体の芯を凍らせる。
方向音痴だけれど,お金がないのでタクシーには乗れない。
夜,ライブ・ハウスに行こうとして地下鉄の出口を間違えてしまった。
明らかに危険な匂いのする看板と,壁の落書き。
路地を歩けば歩くほど,背中に嫌な汗が流れた。
一台の黄色いタクシーが私の傍に来た。
ウィンドウが開き,ドライバーがこう言った。
「HEY,YOU.何やってんだい?」
「あ,あの,ライブ・ハウスに・・・」
「こんなところにいちゃいけない。おくってあげるから,乗りな」
今,思うとその運転手さんがほんとうにいいひとで,よかった。
タクシーの車窓から見る夜のマンハッタン。
古い建物のシルエットが,迫ってくる。
そう,この街で何者でもない私にもひとつだけ,心の岸辺があった。
それは・・・音楽。
街角から,遠く低くサックスの音が,聴こえた。

私,木住野佳子がニューヨークで感じたこと。
この街は,たとえ成功しなくても,アルバイトしながら落ち込まずにやっていける懐の深さがある。
夢さえあれば,生きていける。
謙虚な日本人とは違って,ここで戦うひとはみんな自信と誇りを最後の砦にして,摩天楼を見上げる。
フェアリー・テイル』というアルバムでメジャー・デビューを果たした1995年。
訪れたマンハッタンは,以前とは違う顔を見せた。
この街は,自分の身の丈に合わせた出会いを用意してくれる。
最初のレコーディング。集まったメンバーはとてつもなくすごかった。
ビル・エヴァンスとトリオを組んだ,ベースエディ・ゴメスマーク・ジョンソン
さらにドラムピーター・アースキンや,サックスマイケル・ブレッカー
地下のスタジオに大先輩たちが現れる。
そのスタジオで私は驚いた。肝心のピアノが・・・小さかった。
これでは満足なパフォーマンスができない。
かといってこんなゴージャスなメンバーが,今度,いつ集まってくれるだろう。
お歴々がどんな反応をするのか怖かった。
でも,思い切って「あ,すみません,このピアノでは・・・」と言うと「だよね。だと思った」とあっさり。
「OK。またスタジオが決まったら,連絡して」
ニコニコしながら去っていく。メンバーのひとりがこう言った。
「呼んでくれれば,10分で来るよ。だって佳子,ここはマンハッタンなんだから」

私,木住野佳子のニューヨークでのレコーディング。
日をあらためてセッティングされたスタジオが素晴らしかった。
ビルの最上階。スタジオには陽の光が降り注ぐ。
眼下にはハドソン・リバー。古い大きな橋が荘厳に輝く。
言葉も出ないくらい,感動した。
その日,初めてベースマーク・ジョンソンとセッションしたことは忘れられない。
彼は,ビル・エヴァンス・トリオ最後のベーシスト
彼のベースは,ゆったりと懐が深く,決して急がなかった。
私に演奏の余白を残してくれる。
鍵盤に指をすべらせながら,ふと横を見るとハドソン・リバー。
「ああ,なんて幸せなんだろう」
演奏のあと,マーク・ジョンソンがこんな言葉をくれた。
佳子,キミの演奏は,とてもスムーズに聴こえる。キミは,ちゃんと自分の言葉でしゃべろうとしている。日本人のプレーヤーとしては珍しいタイプだね。ほんとうに素晴らしい演奏だったよ。ありがとう!」
涙が出るほど,うれしかった。私は決して器用ではない。
でも唯一自分が貫いてきたこと,自分の言葉を持つ。
思えば,初めてニューヨークに来たときからそうだった。
私は私の言葉をしゃべりたくて,音楽に身を捧げた。
ゆったり流れるハドソン・リバーを見ながら,初めて,この街の懐に包まれたような,気がした。

世界中で一番,尊敬できるミュージシャンのマークへ :
一番最初にニューヨークのスタジオでお会いした時に,私の演奏したピアノを聞いて,佳子の演奏するピアノはスムーズだね,そして,自分の言葉を喋ろうとしているのが伝わってくるよ,と言ってくれた,その言葉が,ずうっと私の支えになって,今も音楽をやっています。
また是非,これからも一緒に演奏して下さい。よろしくお願いします。