
『PARALLAX』(以下『パララックス』)から飛び出してくるのはピアノの音色ではない。西山瞳のバンド・サウンドでもない。メロディ・ラインである。
個性的な“西山節”とでも書いたら伝わるのでしょうか? とにかく西山瞳のコンポーザーとしての力量を感じる。メロディに説得力がある。首根っこを捕まえられて「これを聴け!」と縛りつけられたかのように…。
西山瞳は『パララックス』の中で,結構な量のアドリブを弾いている。しかし意識していないとアドリブが流れさってしまう。
どこがどういうアドリブなのか? どこまでがアドリブで,どこからが譜面なのか?の判別が難しい。事前に書かれていたかのようなアドリブがいつも美メロで飛び出してくる。
西山瞳のメロディはアドリブのための素材ではない。旋律の1つ1つが美しい。“コンポーザー・ピアニスト”の真骨頂であろう。

上述の論理と一見矛盾した意見のように思えるかもしれないが,ジャズにおいては往々にしてよくあること。
コンボが自分の手足として思い通りに機能する時,リーダーは音世界のイマジネーションを膨らませることができる。ベースの坂崎拓也とドラムの清水勇博を「連れ」として,しなやかで歯切れ良く疾走している。
『パララックス』の聴き所こそ,ピアノ・トリオの有機連鎖と変拍子好きの西山瞳特有のノリ! リズムを細分化しながらアクセントを変えていく西山瞳の“風通しの良さ”がダイレクトにリズム隊の演奏に表われているように思う。
特に清水勇博のドラムでの“遊び”! 引き出しが多過ぎるせいか,曲全体の流れを捉えた時に散漫の一歩手前で踏みとどまる瞬間の途方もない快感! 西山瞳=清水勇博な瞬間の快感! 破壊と創造という快楽が『パララックス』にはある。

思うに,西山瞳は曲を書く時に坂崎拓也ベースと清水勇博のドラムを事前にイメージしていたのだと思う。
完全に西山瞳の術中にベースとドラムがハマッテいる。もっと言えばゲスト参加の馬場孝喜のギターが“パット・メセニーしている”! 【CHANGING】は,もろ「メセニー=メルドー・カルテットと被ってくる。素晴らしい。

『パララックス』こそ,西山瞳のメロディ・ラインの完成形。名器=ファツィオーリの音色はちょっとした付加価値にすぎない。
PS 「PARALLAX-3」は販促用のポスト・カード。「PARALLAX-4」は販促用のポスト・カード直筆サイン入り。サイン前サイン後ではなく2種類を所有しています。
01. Bull's-Eye
02. Softly as in a morning sunrise
03. Front man
04. Changing
05. The other side of midnight
06. Images & words
07. Invisible world
08. Omoi-gusa
09. Blue nowhere
10. Parallax
11. Aprilis
(スパイス・オブ・ライフ/SPICE OF LIFE 2008年発売/PBCM-61032)
(ライナーノーツ/成田正)
(ライナーノーツ/成田正)
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