
そう。ケニー・カークランドのラスト・レコーディング。ケニー・カークランドへの追悼盤…。
ズバリ『レクイエム〜ケニー・カークランドに捧ぐ』の聴き所は,ケニー・カークランドのピアノに触発されたブランフォード・マルサリスのテナー・トリオの名演にこそある。
新伝承派を代表するピアニスト=ケニー・カークランドなら,これ位の演奏などごまんとある。
元来,ケニー・カークランドはブランフォード・マルサリスのレギュラー・ピアニスト。最上級のコンビネーションから繰り出されるアドリブに“凄み”は感じるが“狂気”は感じない。世評を信じるでない。ケニー・カークランドが「遺作」を意識するはずなど毛頭ないのだから…。
しかし「遺作」にして「遺作」意識のないピアノに“狂気”が漂うは否定できない。ケニー・カークランドのタイム感がブランフォード・マルサリスのテナー・トリオとずれているのだ。
ケニー・カークランドがずれているのではない。ケニー・カークランドは以前のレギュラー・ピアニストのタイム感で演奏しているのだが,ブランフォード・マルサリスのテナー・トリオが変化している。進歩している。以前のテナー・トリオに合わせようとしたケニー・カークランドが,結果ずれてしまっている。結果興味深い演奏に仕上がっている。
『レクイエム〜ケニー・カークランドに捧ぐ』におけるケニー・カークランドのピアノはカルテットの一部というより客演である。
ブランフォード・マルサリスのテナー・トリオの自由度の高さはピアノレスから来ている。リズム隊がタイム・キープしつつも,その許容範囲の範疇で,例えば半拍ずつ上げ下げしてブランフォード・マルサリスへメッセージを送り出す。
ブランフォード・マルサリスは見事にパルスを捉えているがケニー・カークランドは捉えきれていない。それでしょうがなく?ケニー・カークランドが“フリー・ジャズ”を弾いている。
この全てが世評で語られるケニー・カークランドの“狂気”の正体であって“本当の狂気”など存在してはいない。

ブランフォード・マルサリスが『レクイエム〜ケニー・カークランドに捧ぐ』について語る時“未完の傑作”という位置付けで語られているが“未完”こそが“傑作”であり,失敗も成功も未完も完成も含めて“ジャズ”なのである。
その意味で『レクイエム〜ケニー・カークランドに捧ぐ』は“結果オーライ”端正美のフリー・ジャズ。
まだ頭でやっているのかなぁ。それはまずないなぁ。名盤連発なのだから分かってて敢えてやっているとしか思えないよなぁ。またブランフォード・マルサリスに関心失くしてしまったかなぁ。
PS 【16TH ST.BAPTIST CHURCH】の本編終了後にひっそりと挟み込まれたブランフォード・マルサリスのソプラノ・サックスとケニー・カークランドのピアノのデュエットに『REQUIEM』を実感して涙してしまいます。もっともっとケニー・カークランドのデュエットを聴いてみたかったと心底思います。
01. Doctone
02. Trieste
03. A Thousand Autumns
04. Lykief
05. Bullworth
06. Elysium
07. Cassandra
08. 16th St. Baptist Church
(ソニー/SONY 1999年発売/SRCS 8907)
(ライナーノーツ/ブランフォード・マルサリス,デルフィーヨ・マルサリス,キース・ジャレット,中川燿)
(ライナーノーツ/ブランフォード・マルサリス,デルフィーヨ・マルサリス,キース・ジャレット,中川燿)