
『オルヴィエート』におけるステファノ・ボラーニの大きな喜びと大きなプレッシャーはいかばかりであろう。必然的にステファノ・ボラーニのライバルは,過去にチック・コリアのデュエットを務めた,ハービー・ハンコックと上原ひろみの「GRAMMY WINNER」の猛者たちであろう。
そんな過去のチック・コリアのデュエット・アルバム,特に同じピアニスト2人とのデュエット・アルバムとの比較で聴き始めた『オルヴィエート』だが,上記の文脈で聴くべきではないことをすぐに感じ取った。
そう。『オルヴィエート』は,過去のチック・コリアのデュエットの範疇では評価できない,全く新しいデュエット・アルバムの誕生なのである。
ハービー・ハンコックと上原ひろみの場合は,チック・コリアと己を“研ぎ合い”,自分1人だけでは登頂できない異次元の高みを目指すデュエットであったと思う。
一方,ステファノ・ボラーニの場合は,チック・コリアと対峙するのではなく,チック・コリアと“一体化”することを望んでいる。つまり2人が同期し1人で4本の指を同時に操る感覚…。2台のピアノが1台のピアノのごとくシンクロしていく感覚…。
『オルヴィエート』における“1人4本指”は,常にチック・コリアが「頭脳」役というわけではない。ステファノ・ボラーニが「頭脳」となってチック・コリアが「手足」役に回る場面もしばしばある。
そのことを強く意識させられるのはチック・コリアとステファノ・ボラーニのソロ・パートでの演奏である。デュエット中は2人が対等に1つの音楽を創造していることが伝わってくる。それはそれでよい。
問題なのは,曲名もテーマもない,自然発生的なインプロビゼーションを弾いている途中で,短いながらも訪れるチック・コリアとステファノ・ボラーニのソロ・パートが“没個性”。デュエットの延長線上にあるアドリブばかりが続いていく。
『オルヴィエート』を聴いていると「なんでこうなるのっ!」と思ってしまう瞬間に出くわす確率が高い。
【ORIVIETO IMPROVISATION NO.1】【ORIVIETO IMPROVISATION NO.2】では,2人の個性が“ぐじゃぐじゃと入り交じって”おり,難関さを覚えてしまう。耳馴染みのあるチック・コリアにもステファノ・ボラーニにも聴こえないのだ。
ポピュラー寄りではなく芸術寄りな演奏である。かなり神経の研ぎ澄まされた演奏である。チック・コリアが頭の中でイメージした音が,瞬時にステファノ・ボラーニの指から奏でられているかのようなレスポンスの高さに,ただただ“唸らされて”しまう。

“殿堂入り”のゲイリー・バートンは別格として,チック・コリアが指名した無数の音楽パートナーの中で,ステファノ・ボラーニこそが“素のチック・コリア”に一番肉薄できたように思う。
同じピアニストに限って語れば,ステファノ・ボラーニとのデュエットは,音楽性の共有という意味ではハービー・ハンコックと上原ひろみを越えたと思う。
ただし,正直『オルヴィエート』は,チック・コリアとステファノ・ボラーニの「2人だけの濃密な音世界」でクローズドされてしまっている。
2人の演りたいことが全部出来ていて,究極の完成度の1枚に仕上がっていることは認めるが『オルヴィエート』における,チック・コリアとステファノ・ボラーニの2人の世界に,第三者が割って入る余地はない。2人の演奏にリスナーが加わることが許されていない。
チック・コリアとステファノ・ボラーニが「恋人同士」のように聴こえて,お邪魔しちゃ悪いのかなぁ,って感じてしまう。
管理人が『オルヴィエート』を次に聴くのは,一体いつのことになるのでしょうか…。
どなたか『オルヴィエート』の楽しみ方を教えていただけたら…。
01. ORVIETO IMPROVISATION NO.1
02. RETRATO EM BRANCO E PRETO
03. IF I SHOULD LOSE YOU
04. DORALICE
05. JITTERBUG WALTZ
06. A VALSA DA PAULA
07. ORVIETO IMPROVISATION NO.2
08. ESTE SEU OLHAR
09. DARN THAT DREAM
10. TIRITITRAN
11. ARMANDO'S RHUMBA
12. BLUES IN F
(ECM/ECM 2011年発売/UCCE-1128)
(☆スリップ・ケース仕様)
(ライナーノーツ/チック・コリア,ステファノ・ボラーニ,原田和典)
(☆スリップ・ケース仕様)
(ライナーノーツ/チック・コリア,ステファノ・ボラーニ,原田和典)