ELIZABETH TAYLOR EN AMERIQUE DU SUD-1 「本職不詳な」菊地成孔である。一応,菊地成孔の本業は,ミュージシャンでありテナーサックス・プレイヤーであり音楽プロデューサーであるのだが,個人的には文筆業にこそ「歯に衣着せぬ」言葉の圧力に「菊地成孔ここに有り」と思わせてくれる。

 ズバリ,菊地成孔の個性とは「理性と感情のバランスの崩壊」にあると思う。1つ1つは大したことはないのだが,あの勢いで音楽にしても文章にしても,自分の思いをストレートに語られると見過ごすことができないのだ。

 菊地成孔の人格のベースには理性がある。菊地成孔の語る言葉は,常に高尚であり知性的なアプローチが試みられている。しかし最後の最後,いざ,口元から言葉が発せられる瞬間に,それまでは理路整然と構築されていたものが,どうしても何度やっても,野性的で感情的な表現に置き換えられる人種の人なのだろう。

 自分自身でも「理性と感情のバランス」をコントロールできていない。口元で全てが崩壊してしまう。無論,失言が多い。しかし,よくよく振り返ってみると,至って普通のことを述べている常識人としての一面にも気付く。
 菊地成孔は“感情に素直な人”なのだろう。誤解されやすい“江戸っ子”気質なのだろう。

 そんな菊地成孔の個性=“理性で構築され,感情優先で表現された”代表作が『ELIZABETH TAYLOR EN AMERIQUE DU SUD』(以下『南米のエリザベス・テイラー』)である。
 イギリス王室の「伝統と格式」と見事に調和する,場違いなラテンの熱いリズム,タンゴもあればサルサもある。正しく『南米のエリザベス・テイラー』と題されるべき音楽の完成である。

 恋多き人生を過ごしたエリザベス・テイラーの“サウンド・トラック”ともいうべき「官能と憂鬱」を繰り返す音楽。勢いとヘタウマが多面的に表現された,菊地成孔にしか作り得ない「ラウンジ・ミュージック」の完成である。
 ブエノスアイレスの,パリの,そして東京の空気感がたっぷりと詰め込められているように思う。

 濃密な無調。作曲と即興。平均律とモノタイム。懐古と革新。そんなインテリな表現を包み込む“退廃的に響く”熱いパーカッションとポリリズムがジャズとクラシックの2つのフォーマットで鳴っている。
 いいや,ジャズをもクラシックをも飛び越えたポップスの音が鳴っている。菊地成孔有する「病的な多面性」が断片的に連続して飛び出している。

ELIZABETH TAYLOR EN AMERIQUE DU SUD-2 艶のあるストリングス,躍動するリズム,バンドネオンテナーサックスがリードする『南米のエリザベス・テイラー』の「倒錯した合奏」は,集団舞踏を思わす性的な昂ぶりと静まりである。
 まるで安いキャバレーの下品なショーを見ている時のような感覚…。見たくてたまらなかったエロスなのに,そんなことどうでもよくて,時間の経過と共に徐々に意識が遠のいていくような…。

 一体,我々リスナーは『南米のエリザベス・テイラー』をどう受け止めればよいのだろうか?
 正直,管理人は当初『南米のエリザベス・テイラー』にひどく困惑させられてしまった。菊地成孔を哀れんだことを白状して謝罪しよう。

 飲みすぎて胃を裏返すほどに吐いて,頭は酩酊をとどめているのに,身体は一足先にすっきりしているときのような…。あるいは一晩中踊って明け方の薄青の中を地下鉄の駅に向けて,鈍重な体にそれと裏腹に風通しのよい頭を乗せて歩いているときのような…。

 そう。「理性と感情」であり「官能と憂鬱」である。
 『南米のエリザベス・テイラー』からは,ばらばらに存在する「相反する要素」が同時に顔を出し,それらに引き裂かれるときの「苦痛と快楽の喘ぎ」を再現した音が聴こえてくる。

  01. Lounge Time #1
  02. Nocturne for Machiko Kyo
  03. The Look of Love
  04. Jorge Luis Borges
  05. Elizabeth Taylor a Paris (qui n'a jamais existe)
  06. The Latina Elizabeth Taylor
  07. Lounge Time #2
  08. Lounge Time #3
  09. Corcovado
  10. The Funeral of Lupe Velez
  11. Crazy He Calls Me
  12. Song of The Latina Elizabeth Taylor

(イーストワークス・エンタティンメント/EWE 2005年発売/EWCD-0104)
(デジパック仕様)
(ライナーノーツ/菊地成孔)

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