
ブラッド・メルドー初のピアノ・ソロ『ELEGIAC CYCLE』(以下『エレゲイア・サイクル』)を1週した時には,こんな感想など抱かなかった。
それどころか書き譜のピアノ・ソロはダメだ。面白くないとさえ思った。頭の中にキース・ジャレットの即興ピアノ・ソロのイメージがあるためなのだろう。そろそろブラッド・メルドーをキース・ジャレットと比較しながら聴くのをやめなければならない。
ブラッド・メルドー批評の中でキース・ジャレット批評を展開するのは良くないが,後述する『エレゲイア・サイクル』批評に関係してくると思うのでご理解願いたい。
キース・ジャレットのピアノ・ソロは,そのほとんどがライブ録音である。だからダイレクトにキース・ジャレットの感情の動きが音に出て来る。キース・ジャレット独特の「唸り」なしでも,キース・ジャレットの感情の高まりを聴き分けることが出来る。
そんな“絶対王者”キース・ジャレットのピアノ・ソロの中に,数は少ないがスタジオ録音盤が幾作かある。そしてこれが超名盤揃いなのである。
ではなぜキース・ジャレットは,ピアノ・ソロのスタジオ録音をやめて,ライブ録音だけを発表するようになったのか? それは練習し過ぎてキース・ジャレット本人が新鮮味を失うことを嫌ったからだと管理人は考える。要はキース・ジャレットは「創造の瞬間」を今まで以上に大切に扱うようになった。
あるいは…(自分の中でも諸説を持っております。この続きはいつかキース・ジャレット批評の中で書かせていただこうと思います)。
この一発勝負の場だから生み出せる「創作」のピアノ・ソロと構成を練り上げて完成した「作品」としてのピアノ・ソロ。聴いて圧倒されるのは,恐らくライブ盤であるが,繰り返し聴き込み愛聴盤になるのはスタジオ盤の方に分がある。
かのキース・ジャレットのピアノ・ソロのスタジオ盤『FACING YOU』と『STAIRCASE』における「これしかない」と思わせる完成度の高さは“作曲家”キース・ジャレットの“天武の才”を証ししている。

『エレゲイア・サイクル』はブラッド・メルドーの「美の循環」の音階で満ちている。
『エレゲイア・サイクル』は,視聴を重ね,理解が深まり,イメージが具現化されて初めて楽しむことのできるアルバムである。抽象的なイメージのまま聴き続けている間はジャズではない。クラシック寄りの現代音楽のピアノ・ソロであろう。
しかし,一旦イメージが固まったなら『エレゲイア・サイクル』はジャズのど真ん中に位置しており,他の誰の真似でもないブラッド・メルドー・オリジナルなピアノ・ソロに愛着を覚えることだろう。
だから“作曲家”ブラッド・メルドーとしての『エレゲイア・サイクル』なのである。だから『エレゲイア・サイクル』はブラッド・メルドーの“芸術作品”なのである。
ブラッド・メルドーの彩りが深い。次々と現われては消えていく『エレゲイア・サイクル』の感動の大波が幾度も周期をなして巡ってくる。
01. Bard
02. Resignation
03. Memory's Tricks
04. Elegy for William Burroughs and Allen Ginsberg
05. Lament for Linus
06. Trailer Park Ghost
07. Goodbye Storyteller (for Fred Myrow)
08. Ruckblick
09. The Bard Returns
(ワーナー・ブラザーズ/WARNER BROTHERS 1999年発売/WPCR-10338)
(ライナーノーツ/ブラッド・メルドー)
(ライナーノーツ/ブラッド・メルドー)