
しかし,管理人がクラーク・テリーを聴こうと思う時,それはクラーク・テリーのトランペットを聴きたいからではない。管理人の中でクラーク・テリーとば“トランペッター”という認識は薄い。
そう。クラーク・テリーと来れば“音楽家”である。クラーク・テリーのトランペットからは,様々な優れた音楽的要素が同時に鳴り響いている。
決して最先端の音楽ではない。しかし,クラーク・テリーから発せられた音からは,いつでも「教養の高さや深み」を感じて幸福感で満たされてしまう。マイルス・デイビスとオスカー・ピーターソンが目を付けていたのはその部分なのだろう。
同じ「教養の高さや深み」を感じるとしても,クラーク・テリーを聴いて感じるのはウイントン・マルサリスのそれとは異なる。ウイントン・マルサリスの場合は,本当の「英才教育」であり“本物”感がバリバリである。ウイントン・マルサリスはジャズ・トランペッターに必要な全ての要素を身に着けている。完全無欠であり,史上最高のトランペッターはウイントン・マルサリスのことだと信じている。
一方のクラーク・テリーの場合,これは長年の現場を経験してきたからこそ語ることのできる「説得力」。これである。
酸いも甘いも,成功も挫折も幾度となく経験してきたからこそ理解できる真実がある。ウイントン・マルサリスが1年で学んだことをクラーク・テリーは10年かけて学んだのかもしれない。
ある問題点の解決策としてウイントン・マルサリスもクラーク・テリーも同じ答えを提出するかもしれない。出した答えは同じであっても,真実の答えは同一ではない。やはり経験を通して学んできた者の発言は重い。
たった一音だけなのに,その簡潔な一音に込められた意味を察することができた時,参らされることがある。経験がお金では決して買うことのできない「生涯の宝物」と呼ばれる所以である。
『THE SECOND SET−RECORDED LIVE AT THE VILLAGE GATE』(以下『ザ・セカンド・セット〜ライヴ・アット・ヴィレッジゲート』)は,単純に「聴いて楽しい」演奏である。普通に聴くと“平凡な1枚”である。そして“平凡な1枚”という評価のまま終わってしまうことがある。別にそれが悪いことだとは思わない。
だが,偶然にも『ザ・セカンド・セット〜ライヴ・アット・ヴィレッジゲート』の「楽しさの理由」に気付いてしまうと,それから先は「耳が止まってしまう」ことだろう。
クラーク・テリーの一音一音にKOされるようになる。ビ・バップがあるしスイングさえも混ざっている。そんなジャズ・トランペットの歴史を聞かせつつも,結局最後は“エンターテイメント”である。アドリブ芸術からは最も離れた場所で,紛れもないジャズを感じることができるのだ。これぞクラーク・テリーのオリジナリティであろう。

世間一般ではクラーク・テリーのトランペットの特徴について“口笛を鳴らすように”と表現されているのだが,その表現に納得の,こちらも名うてのベテラン陣,ジミー・ヒースのテナー・サックス,ドン・フリードマンのピアノ,マーカス・マクラーレンのベース,ケニー・ワシントンのドラムに“口笛の”ニュアンス1つで全体へ指示を飛ばしている。
バンド全体がクラーク・テリーのフレーズをなぞるかのように演奏している。これってマイルス・バンドの運営手法?
そう。マイルス・デイビスの「憧れのトランペッター」。それがクラーク・テリーという“音楽家”なのである。
01. One Foot in the Gutter
02. Opus Ocean
03. Michelle
04. Serenade to a Bus Seat
05. Joonji
06. Ode to a Fuglehorn
07. Funky Mama
08. "Interview"
CLARK TERRY : Trumpet, Flugelhorn
JIMMY HEATH : Tenor Saxophone
DON FRIEDMAN : Piano
MARCUS McLAUREN : Bass
KENNY WASHINGTON : Drums
(チェスキー・レコーズ/CHESKY RECORDS 1995発売/SSCJ-1010)
(ライナーノーツ/三崎光人)
(ライナーノーツ/三崎光人)
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